
近年、仮想世界と現実世界との区別という認識論上の問題、身心問題などの人間存在の問題を考える際に、「水槽の中の脳」の思考実験がよく使われている。これにはいくつかのヴァージョンがあるが、その一つに次のようなものである。それは、あなたの脳に電極をつけ、コンピュータと繋いで、そこから発せられる電気パルスによって脳を刺戟して、あなたが望むどのような経験でもさせてくれるとする。例えば、実際はあなたの脳は水槽の中の培養液のなかで漂っているにすぎないのに、インディ・ジョーンズのような大冒険を経験することもできるとする。このようなバーチャルな経験をさせてくれる機械に、あなたはプラグで繋がれることを望みか? このような問いに対して我々は、「否」と言うだろう。なぜなら、我々は特定の形で存在し、特定の人格を形成しながら生きることを望んでいるからである。タンクの中で形の定まらない塊として漂っていることは望まないだろう。たとえそれが如何に快い生活であろうとも。我々は現実の世界の中で現実と接触しながら生きることを意志しているのである。
我々の生には「現実と接触しながら生きることを望む」意志が根源的に属していると言えるのではないでしょうか。生まれてくる前の我々は、「水槽の中の脳」のような一器官としてではなく、未熟とはいえ人間の形態をした存在として母親の子宮(matrix)の羊水のなかで漂っている。
我々が欲するのは、単に生きることだけではないし、また単に快く生きることだけではない。我々は現実と接触しながら、自分の人生を生きることを欲するのである。もう少し掘りさげて言うならば、もともとすでに我々が母親の子宮のうちからこの世に生まれ出でたのも、羊水のなかで漂いる胎児の状態に甘んじていることができなかったからである。我々は生まれ出でようとする力によってざらざらした大地の上に生まれ落ち、ざらざらした大地の上に自分の足でもってしっかりと立って、自分の足でもって歩き、ざらざらした現実と接触し、現実に立ち向かい、たしかな手応えをもって生きているのである。したがって、我々が現実の世界で現実に生きている限り、その生には現実の世界に生まれ落ちようと欲する意志が、そしてまた、現実と接触し続けようと欲する意志が、アプリオリに属しているのである。かかる意志があって、現実と接触しつつ生きてはじめて、その意志に自由があるか、否か、あるとすればどの程度か、というように自由がその生にとって問題となりうるのである。何の抵抗もないところでは自由は問題になりえない。そもそも問題とする必要はないのである。
それでは、現実と接触しながら生きるということは一体どういうことであろうか。
タンクのなかで浮遊して生きているものは、チューブによって、また子宮の羊水の中で浮遊している胎児は臍帯によって栄養を補給され、自ら食べ物を求める必要はない。与えられただけの食べ物を食べているだけのパブロフの犬もまた、現実から隔離された実験室のなかで生きているだけにすぎない。やはり「現実と接触しながら生きている」とは到底いうことはできない。そのような実験よって人間存在に関して解明できるものがあるとすれば、それは精々のところ人間のサイバネティカリィな生理現象に過ぎない。人間の生の本質には些かなりとも触れるところがないのである。
これに対して、例えばただ水中を浮遊しているだけに見えるあのクラゲのような原生的な生き物でさえ、すでに「現実と接触しながら生きている」。それは、触手を自ら伸ばして、現実に接触し、現実の内に於いて餌を捕らえなくてはならないのである。総じて生物は、現実に生きていくためには、自分の餌となる何か或るものを、自分に抵抗する何か或るものを求めて手を伸ばし、それを捕らえ、それを自分の口に持って行き、それを食べなければならないのである。生物は食べるという原初的な生命活動に於いてすでに現実と接触しながら生きることを意志せざるをえない。その意志なくしては、もはや現実に生きているということはできないのである。
生のこの根源的な意志をニーチェは「力への意志」と特徴づけた。ニーチェ晩年(1888年春)の遺稿で次のように述べている。
「原始的な捕食というような最も単純な場合を取り上げてみよう。原形質は、自分に抵抗する何か或るものを求めて、自分の偽足を伸ばす・・・・・飢餓からではなく、力への意志から。これに続いて、それに打ち克ち、これを摂取し、血肉化する・・・・・『捕食』と呼ばれるものは、より強くなることを欲するというあの根源的意志の単なる結果ー現象、すなわちその応用にすぎない。」と。

このニーチェの遺稿にしたがえば、我々人間のみならず、生きとし生けるものすべてが「力への意志」を持っており、「現実に触れながら自分自身を生きることを」意志しているといえよう。この場合、現実の表面を単に撫でるように触れるだけではない。現実のうちにおいて自分に抵抗する何か或るものを捕捉し、これを自分の身体の内へと摂取し、血肉化して自分の身体を形成し、かくしてそれぞれ自分自身を生きている。機械は、我々人間の代わりができないばかりではなく、クラゲのような原生生物の代わりすらできない。
触手を伸ばして捕捉した獲物を生き物はただ自分とは別のものとしてその手の内に捕らえておくだけでなく、自分の身体の内へと摂取して自分に同化してしまうが故に、振り返って言うならば、その生き物は単に他のものに向かって外へと触手を伸ばしているというよりもむしろ将来の自分に向かって、自分の将来に向かって触手を伸ばすともいえるであろう。それが総じて生き物が「現実に触れながら自分自身を生きる」ということに他ならない。
人間もまた、いやむしろ人間こそすぐれて遠い将来に向けて触手を伸ばしていく。時にはすんなりと獲物を手に入れることもあるだろう。しかし時には障碍に衝突して挫折することもあるだろう。しかし、障碍に衝突して砕け散った自己を克服することに於いて人はより強くなるであろう。
かくして、上の遺稿をニーチェは次の言葉で締めくくっている。
「障碍はこの力への意志の刺激剤である」、と。
ニーチェの哲学思想について下記の本を参照されたい。
圓増治之著 『ニーチェ……解放されたプロメテウス……』(1990年刊、講談社学芸アーカイブ、創文社オンデマンド叢書所収)